千坂(ちさか、ちざか)氏は、上杉氏の重臣で四家老家の一つ。
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千坂氏は長尾氏や石川氏などと同じ上杉氏の根本被官である。後に犬懸上杉庶流を名乗るが、これは整合性が取れない。犬懸家庶流の者が、譜代の臣・千坂家を継いだという可能性も考えられるが、はっきりとはしていない。
上杉氏に仕えた時期は鎌倉時代と推測されるが、はっきりと名前がみえるようになるのは南北朝時代である。もとは犬懸上杉家の家臣であり、上杉朝宗のもとでは武蔵守護代を務めるなど家臣筆頭の地位にあった。[1] 上杉禅秀の乱の後には越後守護上杉家の家臣として現れ、上杉謙信が上杉の名跡を継いだ後は、千坂景親(対馬守)が謙信の重臣となった。
景親は越後国蒲原郡を領し、謙信の家臣の中にあっては、謙信を本営にて警固する、いわば親衛隊的な立場にあり、そのため謙信の本営が敵襲により危機に陥らないかぎり、景親には出動の機会はなかった。それが謙信の他の重臣と比して千坂景親の名前が上杉謙信の合戦記になかなか登場しない理由でもある。謙信の没後は、上杉景勝に仕える。
千坂景親は1598年に、陸奥国大沼郡に5500石を受領。関ヶ原の合戦後には徳川氏との折衝役を務める。1603年、米沢藩の初代江戸家老となる。1606年、71歳で死去。
景親の玄孫が、元禄赤穂事件(忠臣蔵)の際に父吉良義央の援軍として出兵しようとした藩主上杉綱憲を押しとどめたといわれている上杉家江戸家老千坂高房(千坂兵部)である。(ただし実際には千坂高房はすでにこの頃死去していた。詳しくは高房の項目を参照)
明治時代の貴族院議員の千坂高雅は、高房の子孫になる。
歴代当主
千坂高春
千坂光房
千坂信高
千坂定高
千坂実高
千坂能高
千坂景長
千坂景親(上杉輝虎近臣)
千坂長朝
千坂高信(庶家からの養子説有り)
千坂高清
千坂高治
千坂高房(千坂兵部)
千坂 景親(ちざか(ちさか) かげちか、天文5年(1536年) - 慶長11年(1606年))は、戦国時代・安土桃山時代・江戸時代初期の越後国の人物。千坂景長の子で、上杉氏の重臣。対馬守。子に千坂長朝、千坂高信らがいる。
千坂氏は上杉氏の四家老の一つで、上杉謙信が上杉の名跡を継いだ時、千坂景親が上杉謙信の重臣となった。
景親は蒲原郡を領し、謙信の家臣の中にあっては、謙信を本営にて警固する、いわば親衛隊的な立場にあり、そのため謙信の本営が敵襲により危機に陥らないかぎり、景親には出動の機会はなく、それが謙信の他の重臣と比して千坂景親の名前が上杉謙信の合戦記になかなか登場しない理由でもある。謙信の没後は、上杉景勝に仕える。
1598年に、会津大沼郡5500石を受領。関ヶ原の合戦後には徳川家との折衝役を務める。1603年、米沢藩の初代江戸家老となる。1606年、71歳で死去。
江戸時代中期の元禄赤穂事件(忠臣蔵)の際に父吉良義央の援軍として出兵しようとした藩主上杉綱憲を押しとどめたという上杉家江戸家老千坂高房(千坂兵部)は、景親の玄孫に当たる。(ただし実際には千坂高房はすでにこの頃死去していた
千坂 高房(ちさか たかふさ。寛永15年(1638年) - 元禄13年5月9日(1700年6月25日))は、江戸時代前期の人物。米沢藩上杉家の江戸家老。千坂高治の子で、千坂景親の玄孫にあたる。
通称の千坂 兵部(ちさか ひょうぶ)の名で知られる。忠臣蔵などのドラマでは、吉良上野介邸討ち入りの際に実父吉良上野介を助けるために出兵しようとする主君上杉綱憲を押しとどめる役などで出てくることが多い(ただし実際にはこの時すでに千坂は死んでいる)。
千坂氏は長尾氏、石川氏、斎藤氏と並ぶ上杉氏の四家老家(千坂、長尾、石川、斎藤)の一つ。上杉謙信、景勝と二代に仕えた千坂景親は、上杉家初代江戸家老であり、その子孫の千坂高治も江戸家老となっている。
その江戸家老千坂高治の子として生まれたのがこの高房である。寛文8年(1668年)11月5日、千坂家の家督を相続したが、寛文4年(1664年)、藩主上杉綱勝急死によって米沢藩領を30万石から15万石に減らされたため、家臣たちも半知となって千坂家の所領はこのとき1565石となっていた(もともとは3130石)。
延宝2年(1676年)6月2日、世襲してきた江戸家老に就任。元禄12年(1699年)4月23日、隠居して米沢に帰国した。隠居料として15人扶持を与えられる。元禄13年(1700年)5月9日に死去した。享年62。
実際の千坂兵部が元禄赤穂事件の際にはすでに死んでいるにもかかわらず、ドラマや映画などで主君上杉綱憲の出兵を押しとどめるシーンが多いのは、大佛次郎著『赤穂浪士』の影響である。しかし最近では、千坂が当時すでに死亡していたことが広く知られるようになったため、かわって当時の上杉家江戸家老色部又四郎がこの役を代行することが多くなった。
色部安長(いろべ やすなが、寛文4年(1664年) - 享保15年7月30日(1741年8月30日))は米沢藩上杉家江戸家老。通称は又四郎(またしろう)。『忠臣蔵』の物語中で吉良上野介邸討ち入りの際に実父吉良上野介を助けるために出兵しようとする主君上杉綱憲を押しとどめる役などで出てくることが多い。
上杉家重臣長尾権四郎景光(侍頭)の次男として米沢城下に生まれたが、寛文六年(1666年)には同じく上杉家重臣の色部隼人清長の急死のためにその養子に入り、色部家の家督を継いだ。この色部家は桓武平氏の一つ秩父平氏の流れを組む本庄長門守泰長が下越後色部庄を鎌倉公方より賜り、色部氏を称したのにはじまる。戦国時代の勝長の代に上杉謙信に仕え、豊臣時代の光長は上杉景勝の会津120万石のうち長井郡金山城1万石を持った。しかし江戸時代になると関ヶ原の戦いで西軍に属した責任を責められ、上杉家は30万石に減らされたため、家臣たちの家禄もすべて三分の一に減らされ、色部家は3330石となった。さらに寛文四年(1664年)に米沢藩は藩主上杉綱勝急死によって領地を30万0000石から15万0000石に減らされたため、家臣たちの家禄は半分にされ、色部家の領地はこのとき1666石となる。これが安長が受け継いだ家禄であった。
延宝8年(1680年)4月に藩主上杉綱憲が参勤交代で江戸へ行く際にお供してはじめて江戸へ入る。ときに又四郎17歳。以降、綱憲にお供して江戸と米沢を毎年のように行き来したが、元禄12年(1699年)1月6日、上杉家江戸家老に就任し、江戸在府となった。この時に妻子も米沢から江戸へ呼び寄せて、桜田の上杉家上屋敷に住ませている。江戸家老に就任した安長は窮迫する米沢藩財政の建て直しに苦心したが、特にその原因は藩主綱憲の実父吉良義央であった。浪費癖がある吉良義央は、吉良家の普請や買掛金(商人への未払い金)をすべて上杉家に支払わせた上、毎年6000石もの援助を要求したためである。この負担の大きさは、江戸勘定方須田右近が米沢の重臣に宛てた書状の中で「当方もやがて吉良家同然にならん」と嘆いているほどであった。
元禄15年(1702年)12月14日に吉良邸討ち入りがあるが、元禄赤穂事件を扱ったドラマや映画・小説などでは、この際に、実父吉良上野介を救うため出兵しようとする上杉綱憲を色部が諫めるというシーンが多い。これは大佛次郎の小説『赤穂浪士』で千坂高房が綱憲をとめるという場面があるのが原因なのだが、千坂がこの当時すでに病没しており、江戸家老ではなかったことが判明したため、最近ではかわりにこの頃江戸家老だった色部に代えられたというわけである。しかし色部のほうも実はこの日、実父の喪中で上杉家に出仕しておらず、そのようなことはできなかった。事件を受けて翌15日に急遽出仕している。上杉綱憲の出兵を止めたのは実は家臣ではなく、親族の高家畠山下総守義寧である。しかしこれも討ち入りの最中ではなく、討ち入り後、泉岳寺にいる赤穂浪士たちを上杉家が襲撃しないように幕府老中の下知を受けて、上杉家に派遣されただけである。
色部は、その後も長く江戸家老職にあったが、享保元年(1716年)8月6日に隠居が認められて米沢に帰国した。隠居料として10人扶持を与えられて寿残斎と号す。寛保元年(1741年)に死去。享年78。米沢の千眼寺に葬られた。法名は不著院殿禅堂開基独安長慎居士