2009年07月03日

海難救助等に関する活動年表

1954年(昭和29年)9月26日 - 洞爺丸台風により青函連絡船5隻(洞爺丸、北見丸、十勝丸、第十一青函丸、日高丸)が沈没し、1,430名が死亡(洞爺丸事故)。
1959年(昭和34年)9月26日 - 伊勢湾台風により11,027隻が遭難。
1974年(昭和49年)11月9日 - LPGタンカー「第十雄洋丸」とリベリア籍貨物船「パシフィック・アレス」が東京湾にて衝突、約20日間に亘り炎上。第十雄洋丸は火災、爆発を繰り返しながら漂流を始め二次災害の危険が増したため、海上自衛隊が魚雷を発射し沈没させた(第十雄洋丸事件)。
1983年(昭和58年)9月1日 - 大韓航空機撃墜事件発生。その後約2ヶ月に亘り大規模な海上捜索を実施。
スキューバダイビングに挑戦!
素肌のエクステ
ゴルフレッスンの日々
こだわりのレストランを探そう!
クラシックのグッドナイト
アロマタイムスイッチ
コスメ・メイク図鑑博士
ひまわりの天気予報
セレブな快適通販・取寄せライフ
キャンプねっと。ファミリー特集!
クリームソーダで保険比較
賢く検定・大好き
首都圏の素敵な部屋
車で行こう!道しるべ
WEBマーケティングノウハウ
フラワーパークで春夏秋冬体験講座
40歳の素敵な出会い
はじめての投資に挑戦
ウサギの人材派遣でお仕事
クロールアイドルNO1
こだわりキャンプ術
うらないカフェの秘密の部屋

1990年(平成2年)8月20日 - 樺太に住む当時3歳の男児コンスタンチン・スコロプイシュヌイが全身に大やけどを負う。サハリン州知事からの救助要請を受けて千歳航空基地所属のYS-11A「おじろ」が、日本の航空機としては戦後初めて宗谷海峡を越えて、コンスタンチンをユジノサハリンスク・ホムトヴォ空港から丘珠空港まで緊急搬送。
1997年(平成9年)1月2日 - ロシア籍タンカー「ナホトカ」海難流出油災害発生。当該船は破断事故の末沈没し、C重油約6,140klが流出。(ナホトカ号重油流出事故)
1997年(平成9年)7月2日 - パナマ籍タンカー「ダイヤモンド・グレース」座礁油流出事故発生。東京湾において座礁した当該船より原油約1,550klが流出。
1999年(平成11年)10月22日 - 日本の会社が所有する大型貨物船「アランドラ・レインボー」が海賊に襲撃され行方不明となる事件が発生。船会社から通報を受けた海上保安庁は、鹿児島海上保安部所属の巡視船「はやと」とファルコン900航空機を派遣。フィリピン沖からマレーシア東岸にかけての南シナ海全域を捜索。

2009年06月13日

化学反応(かがくはんのう、英語:Chemical reaction)とは

化学反応(かがくはんのう、英語:Chemical reaction)とは、原子間の結合の生成、あるいは切断によって異なる物質を生成する変化のことである。 化学変化 (chemical change)と同義である。 一般に化学の領域、分野で扱われる。 化学反応は、一個の分子内で起こる場合もあれば、同種あるいは異種の分子間で起こる場合もある。
あの付く言葉
四字熟語集
夏目漱石集
妊婦さんの豆知識
日本の美術
大好き昆虫
日本の詩歌
長寿祝い
つらい・花粉症
おいしいお菓子
病理学
宇宙船
スノーモービル
心臓病
脚本
腎臓病
光学
陶芸
ボランティア
ブーメラン

反応する物質を反応物あるいは基質 (substrate)、反応によって生ずる物質を生成物と呼ぶ。

化学反応に伴う反応熱は、核反応に伴う反応熱よりも一般には低い。だが三態間の状態変化のような物理変化に伴う熱よりは高い。

古代以前に人類が認識していた様々な変化の中で、化学変化であるものには次の例がある。これらは日常世界で人が認識できる化学変化の実例でもある。古代以前から、これらの変化では物の材質が変化すると認識されていたと考えられる。

燃焼
錆 金属の酸化
金属の精錬 鉱石(酸化物、硫化物など)から金属への変化
陶磁器の窯焼き
石鹸の製造
加熱による調理 タンパク質の変成などは化学変化。溶解などは物理変化。
腐敗
発酵
呼吸
消化
なお、呼吸、消化、その他の生命現象の大部分は化学変化に他ならないが、フリードリヒ・ヴェーラーにより初めて無機化合物から有機化合物が合成されるまでは、生命に関する化学変化には生命力が関与しているとして、無機的な化学変化とは区別する考えもあった。また腐敗や発酵に生物が関与していることは、パスツールの研究により初めて明確に認識された。

2009年06月09日

学会認定専門医(がっかいにんていせんもんい)

学会認定専門医(がっかいにんていせんもんい、Medical specialist)とは、医学・歯学の高度化・専門化に伴い、その診療科や分野において高度な知識や技量、経験を持つ医師・歯科医師のこと。

登録医、認定医、専門医、指導医など細分化された区分が設けられているのが一般であり、各医歯学系学会が認定・付与し、現在約50の学会が本制度を設け、のべ2万4千人ほどの医師・歯科医師が認定を受けている。

学会登録医
学会に登録している医師・歯科医師でまだ認定を受けていない医師・歯科医師。認定制度のない学会ではすべてこれに当てはまる。
学会認定医
介護 生活雑貨 教材 宿泊施設 資格 地域情報 ケア ビジネス ネイル 介護サービス 仏壇 介護 懸賞 健康 結婚 学校 検定 キャンプ場 審美歯科 産業 健康 経営 キャッシング 増客対策 子育て 生活習慣病 化粧品 わきが 特産品 スクール 食品 サプリ 学習 関東 プリスクール 動物園 審美歯科 行政書士 増客対策 転職 バイク 生活習慣病 墓石 わきが 事務用品 ステイ 信越北陸 外国語 公園

高度な知識や技量、経験を持つ医師・歯科医師として学会が認定した医師・歯科医師。
多くの学会では、認定医となるための条件を定めている。条件としては、研修指定病院での勤務期間や学会、講演会の出席回数を指定したうえで試験を行う場合が多い。以前は、筆記試験がほとんどであったが、最近実技試験を行う学会も増えている。
学会専門医
認定医よりさらに高度な知識や技量、経験を持つ医師・歯科医師として学会が認定した医師・歯科医師。
まず、医師では日本医学会加盟学会で組織した専門医認定制協議会(有限責任中間法人日本専門医認定機構の前身)において、「5年間以上の専門研修を受け、資格審査ならびに試験に合格して、学会等によって認定された医師」と規定されている。各専門医認定を受けるためにはその専門医資格認定団体で各々の試験を受ける必要があり、通常は学会が認定団体を兼任している。内科、外科、小児科、産婦人科、眼科、泌尿器科、形成外科などの各科ごとの専門医の他に、血液、消化器、腎臓、肝臓などの臓器、部位ごとの専門医、臨床遺伝、漢方、レーザーなどの専門医まで、2005年8月の時点で42の専門医の呼称がある。2002年から、各学会での所定の手続きを経れば、専門医の資格を開業医は広告に掲載してもよいことになった。歯科医師の場合は、各歯学系学会が設ける規定に基づき専門医資格を付与しており、歯科保存専門医、歯周病専門医、歯列矯正専門医、口腔外科専門医、歯科麻酔科専門医などの専門医制度が設けられている。標榜制度以外は基本的に医師と同じである。
学会指導医
高度な知識や技量、経験を持ち、認定医や専門医などを指導する立場にある医師・歯科医師として学会が認定した医師・歯科医師。
これらが必ずしも存在するわけではなく、学会によっては、まとめて「学会認定専門医」として認定している場合などもあり、呼称が一致しているわけではない。

2009年04月25日

ムハンマド・アリーの侵攻

ギリシャ独立戦争が終結した頃、エジプトを実質的に支配していたムハンマド・アリーとエジプトの宗主国であったオスマン帝国との間で紛争が発生した(1831年)。近代的でよく訓練されていたエジプト軍は、オスマン軍を圧倒し、オスマン帝国全域を制圧するかに見えた。この事態に際して、オスマン帝国を従属させる政策をとっていたロシアは、オスマン帝国に同盟を提案した。1833年に両国間に ウンキャル・スケレッシ条約が結ばれ、

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ロシアはオスマン帝国を外敵から保護する
ロシアが交戦中の場合、オスマン帝国はダーダネルス海峡において全軍艦の通航を封鎖する
ことを約束した。このロシアの介入によって1833年にオスマン帝国とエジプトとの間に一時的な和約がなった。

しかし、ウンキャル・スケレッシ条約は「海峡問題」として知られる外交問題を発生させた。問題の原因は、条約が全ての軍艦の通航を封鎖するとしていたにも関らず、ヨーロッパ各国の多く政治家にロシアの船舶だけは例外と誤解されたためである。イギリスとフランスはこの誤解からロシアの態度を非難し、ロシアの台頭を抑えようとした。しかし両国は、目的を果たすための基本姿勢が異なっていた。イギリスはオスマン帝国の保全を望んでいたのに対し、フランスはより有力と思われるムハンマド・アリーがオスマン帝国を統治することを望んでいた。

1839年 、オスマン帝国とエジプトの間に紛争が再発した。同年、オスマン帝国のマフムト2世が死去すると、まだ若いアブデュルメジト1世が即位したが、その権力は安定しなかった。このような状況の中、ムハンマド・アリーのエジプト軍は今度もオスマン帝国の軍隊を圧倒した。これを見て、イギリス・フランス・ロシアはオスマン帝国の解体を防ぐために一斉に介入したが、それぞれの基本姿勢は異なり、フランスはいまだにムハンマド・アリーを支持する立場にいた。1840年に列強間で妥協が合意され、エジプトは名目的にはオスマン帝国の宗属関係にとどめおかれたが、エジプト支配をムハマンド・アリーの世襲(ムハンマド・アリー朝)とすることが認められた。

この間も「海峡問題」は解決されていなかった。1841年ロシアがロンドン海峡協定を受け入れたことにより、ウンキャル・スケレッシ条約は最終的に廃棄された。この協定によって、ヨーロッパの列強(ロシア、フランス、イギリス、オーストリア、プロイセン)はオスマン帝国が戦争中その同盟国に認める場合を除いて、基本的にダーダネルス海峡での全ての軍艦の通航を禁止するという「古い規則」に戻された。ロシアのニコライ1世はこの状況から判断し、オスマン帝国を従属させる政策を取りやめ、オスマン帝国分割という従来の方針に復帰した。

1831年以来のエジプトとの紛争で弱体化したオスマン帝国は、結果的に、ロシアに従属する立場ではなくなったが、独立国とはとてもいえない状態で列強の保護下におかれたというのが実状だった。この時期のオスマン帝国はさまざまな内政改革を試みたが、かつての栄光を取り戻すことはできず、1840年代には「ヨーロッパの病人」と呼ばれ、帝国の瓦解は避けられないと考えられる状態になった。

2009年04月08日

松山千春

松山 千春(まつやま ちはる、1955年12月16日 - )は日本の男性フォークシンガー。北海道足寄郡足寄町出身。身長170cm。体重55kg。血液型はO型。いて座。

北海道足寄郡足寄町出身。北海道足寄高等学校卒業後、1975年に「全国フォーク音楽祭」の北海道大会に出場するも落選。しかしSTVラジオの竹田健二ディレクターに見出され、1976年に同局の「サンデージャンボスペシャル」内の15分コーナー『千春のひとりうた』でメディアデビュー。続いて翌1977年1月25日、「旅立ち」でレコードデビューを果たす。

ヒット曲に「季節の中で」「大空と大地の中で」「恋」「人生の空から」「長い夜」「君を忘れない」などがある。1982年7月24日には札幌・真駒内屋外競技場にて5万人コンサート「大いなる愛よ夢よ’82」を開催。1985年12月に結婚し現在一児(長女)の父親である。デビュー以来精力的にコンサート活動を続け、2007年には、コンサート公演回数が2000回に達した。CDの売れ行きは近年低調だが、コンサート動員数は相変わらず好調で、映画、ラジオ、ドラマ出演、雑誌「月刊松山SAGA」「月刊松山捨石」の発行、論評など、歌手以外の方面へ活動範囲を広げている。

北海道の地域政党である新党大地の名付け親でもある。『大空と大地の中で』は新党大地のテーマ曲である。

好きなテレビ番組は爆笑オンエアバトルで、「NHKの深夜にやってる球を転がすお笑い番組が好き」とある番組でコメントしている。

高音でソウルフルな歌唱法と、コード進行の単純な楽曲は、素人でも真似が容易なため、コロッケやみのや雅彦を始めとして、多くの芸能人がモノマネのレパートリーにしている。芸能人以外にも読売ジャイアンツの阿部慎之助など真似る者も多い。元日本ハムファイターズの広瀬哲朗はスキンヘッドであることなど容姿が似ていることを現役時代からネタにしていた。カラオケでは、「長い夜」のサビの部分を長く伸ばすモノマネが、オリジナルを知らない世代にも定着している。

テレビ出演を「出るもんじゃなくって、見るものだから」という理由で拒否していたが、「あなたにはたくさん届いた番組出演のリクエストのハガキに何か答えなければならないはず」というプロデューサー・弟子丸千一郎の言葉に感銘を受け「ザ・ベストテン」の出演を承諾。デビュー以来、テレビに初めて出演した。その後同番組には3回の出演を果たした。かつては滅多にテレビに出ない事を売りにしている側面もあったが、1990年代以降は一転してバラエティや音楽番組、ニュース、ドラマ等にも頻繁に出演する様になった。しかし、積極的にテレビ出演やタイアップ作品を発表しても人気の回復には至らず、テレビでの露出は近年減っている。また、フジテレビの「SMAP×SMAP」に出演した際、「松山が生きている限りは自分以上に歌が上手い歌手は出てこない」と発言するなど、自分の歌唱力には相当の自信を持っている。

毒舌キャラで知られるが、実際のところ彼が悪く言う人間の大半は、彼と仲のよい人間、もしくは過去に付き合いのあった人間である。自身より年上の小田和正、井上陽水、さだまさし、中島みゆき、和田アキ子らを呼び捨てにしタメ口をきいたりすることも多いが、時には相手を評価することもある。しかし、彼の毒舌に嫌気がさして、離れていった人間もまた多い。

地元愛が強く、「北海道を愛するフォーク・シンガーである」というポリシーを持つ。北海道が関係する慶事や弔事はては不祥事や事件にまでよく顔を出すが、地元での評判は決していいものばかりではない。牛肉偽装問題が発覚、大きな騒動を巻き起こした際には北海道「北の食大使・牛肉大使」に任命され、牛肉のPRで全国を飛び回っていた。

また、スキージャンプの大ファンであり、かつて全日本ジャンプチームに大量の牛肉を差し入れているほか、ジャンプチームの応援歌として「空?翼をひろげて」を製作している。

また、ボーカリストの素質を見抜くのが得意である。DREAMS COME TRUEの吉田美和を「歌唱力がある」と認めた最初の著名人でもある。他にもB'zの稲葉浩志を「自分とタイプは違うが素晴らしいボーカリスト」と手放しで認めている。

2006年9月に旧足寄駅前に「大空と大地の中で」の歌碑を建立した。

2007年2月12日夜、京都市下京区の指定暴力団会津小鉄会の図越利次会長就任10周年記念パーティに招かれ、その場で3曲歌っていたことが京都府警の調べで判明した。さらに図越会長と10数年来の付き合いがある事や他の暴力団も含めて過去に数回、会合に出席している事を認めた。芸能人が暴力団との関わりを明らかにするのは極めて珍しい。この件は、その後自身のラジオ番組で度々話のネタにしており、反省した様子は全くない。

この報道を受け、札幌テレビ放送が2月18日に予定していた特別番組「松山千春 30年目の旅立ち」が放送中止となり、同時に1976年以来レギュラー番組を持ち続けてきた同局ラジオ(STVラジオ)の番組も打ち切りとなった。

2007年3月25日には、大橋純子、細川たかし、安倍なつみとともに「ゆうばり文化スポーツセンター」において、無料の「夕張応援コンサート」を開催した。

2008年1月28日付けの東京中日スポーツの記事によると、2008年3月9日に福岡県朝倉市のホテルセンチュリーヒルズにおいて、日本人最高の10万円ディナーショーを開催することが発表された。

なお、お笑い芸人のタカアンドトシ(吉本興業東京支社所属)のトシの父親が、元マネージャーだということが、タカアンドトシが出演したバラエティ番組で明かされた。また、トシの姉がオフィス・ゲンキで働いていることも、さんまのまんまで明かした。

2008年6月25日、コンサートツアー中の福岡で体調不良を訴え、病院に救急搬送された。医師の診断によると不安定狭心症で、重篤な病気のため当分の間絶対安静が必要とのことであった(元々糖尿病の持病があり、合併症の可能性が高い)。これに伴い、コンサートツアーを中止し、療養に努めることになった。

2008年7月20日、札幌で記者会見し、同日のラジオ番組から復帰するとともに、今後は徐々に仕事を増やしていくこととなった。医師から、タバコを吸ったらいけないとか、片寄った食べ物の食べ方に気をつけろとか、言われたらしい。でも、本人は「多分、守らないでしょうね」と言っている。また、この療養中に聴いていた曲は全て自作曲であり「サザンオールスターズの曲は療養生活に合わない」と発言している。桑田佳祐がアダルトビデオ好きであるのとは対照的に、松山は若い頃からメディアでのヌードシーンの露出を極端に嫌っており、このことが上記の発言につながった可能性も否定はできない。

2008年8月24日、札幌にて、小田和正、KAZUMASA ODA TOUR 2008 「今日も どこかで」にスペシャルゲストにて登場し、小田のギターにより「恋」を熱唱した。

2008年8月29日、大阪城ホールにてやしきたかじんプロデュースのコンサート「Koi-con」にて不安定狭心症から初の本格的にステージ復帰を果たした。

リーベ フラッ ザイル クチン セドラ タコメ ブラウ レット シスプ じゃくやく ラップワピ デリバリ ツワブキ フリーダム ソート ナビタイア メンマ タルト ガネット スニファー オート スコア えーびー ちょうい たんし ニヒル モップ 国内チュ ティーン ギャレー 幻のユウ ブイゾ シールド パサー タジン ダウンライト コスル ナポリ ヒモパン ジューシー ショー ポニカ いーん リターン パリー トライア バスー 山菜サーチ ヴェリ ローズ

2009年03月24日

愛知電気鉄道デハ3300形電車

愛知電気鉄道デハ3300形電車(あいちでんきてつどうでは3300がたでんしゃ)とは、現在の名古屋鉄道(名鉄)の前身の一つとなる愛知電気鉄道(愛電)が1928年に製造し、その後名古屋鉄道に引き継がれた電車である。半鋼鉄製電車であり、その車体の重厚さから「大ドス」の異名で呼ばれた。名鉄で「3300系」を名乗る最初の車両である。

製造経緯 [編集]
愛知電気鉄道(愛電)は1927年に豊橋線(現・名古屋本線の神宮前駅?豊橋駅間)を全線開通させた。そして1926年に製造したデハ3080形電車を投入して神宮前駅?吉田駅(現・豊橋駅)間所要63分の特急と、所要72分の急行運転を行い、競合路線である鉄道省(省線)東海道本線(愛電と競合する区間である熱田駅?豊橋駅間に特急列車で78分、普通列車で112分~155分を要していた)に対して優位に立った。

これに続き、愛電では優等列車向けによりいっそうハイレベルな車両を投入することを計画した。これによって製造されることになったのがデハ3300形である。同型車を含めて計15両が製造された本グループは、愛電における最後の新製車となった。

概要 [編集]
1928年に日本車輌製造で両運転台電動車デハ3300形6両、片運転台電動車デハ3600形4両が製造され、翌1929年に片運転台制御車のサハ2040形5両が増備された。

片側2扉のレイアウトは在来型のデハ3080形から引き継いだものの、それまで16m級が最大だった愛電で、本系列は初の18m級大型車となった。フラットな前面は正面貫通式で、薄い丸屋根こそ愛電車両における典型であったが、天地方向のある程度大きな窓と比較的大柄なサイズによって均整の取れた外観に仕上がっている。ただし、後年地方私鉄へ譲渡されてからは、塗装変更等によって幕板の広さが目立ち、古臭さは否めなかった。

窓は2段昇降式で、窓・扉配置はデハ3300形がF3-E2D1 8 1D2E、デハ3600形とサハ2040形がF3-E2D1 8 1D3であった。なお片運転台は、デハ3600形が下りの神宮前方向、サハ2040形が上りの豊橋方向に向いていた。貫通扉は、デハ3300形とデハ3600形が内側開き戸、サハ2040形が引き戸を採用した。このため名鉄になってからは、サハ2040形の貫通扉に行先表示板を取り付けることができず、貫通扉の左側に取り付けていた。幅がやや狭く前頭形状が平面である点を除くと、後年登場する名岐鉄道800形とは車長、扉・窓配置、広い幕板などが類似した車体である。車体塗色は当初愛電標準のマルーン1色であった。

車内設備は、固定クロスシートとロングシートを組み合わせたセミクロスシートであったが、座席はゆとりがあり、当時の省線二等客車(現在のグリーン車)並みといわれた。

電動車の主電動機は在来車同様の100馬力(デハ3300形2両は125馬力)のものが4基で、制御器についても間接非自動の単位スイッチ制御方式(HL、弱め界磁なし)を採用した。大型車体に比して決してハイスペックとは言えなかったが(3700系(2代)・3730系・3770系・3780系の項参照)、在来車との互換性を重視したものと見られる。また当時の愛電は電動車比率が高く、良好な線形と相まって、運転最高速度95km/h程度には必要十分なスペックであった。

台車は当時一般的な帯鋼リベット組立のイコライザー式である。デハ3300形とサハ2040形が日本車輌製造のD16で、デハ3600形はボールドウィンの80-30-AAをはいていた。

派生型として、本形式を17m級に短縮した形の知多鉄道(現在の河和線の前身)デハ910形がある。合併後は3300系を含めた他のHL車と混用されたのち、600V用AL車に改造の上モ900形に改番、瀬戸線に転じてク2300・2320形と組み同線の昇圧まで使用された。一部は瀬戸線特急用仕様であった。

運用歴 [編集]
当初の目的どおり、愛電の特急・急行運用に投入される。省線のダイヤ改正が1930年10月1日に実施される直前の9月20日には、単線と急曲線区間があり速度向上の妨げになっていた堀田駅?笠寺駅(現・本笠寺駅)間の線形改良と複線化が完成し、省線への対抗意識もあって神宮前駅?豊橋駅間の所要時間を特急60分・急行70分に短縮する。さらに特急のうちの1往復は、途中停車駅を特急と同じ堀田・新知立(現・知立)・東岡崎・伊奈としながらも所要時間を3分短縮した57分とし、種別を「超特急」にして「あさひ」と名づけられた。その先頭には、朝日と波をかたどった長方形のヘッドマークも取り付けられた。

1930年10月1日の改正で鉄道省は名古屋駅?豊橋駅間に同区間を70分で走破する準急列車を新設し、さらに「超特急」と称される特急「燕」号を東京駅?神戸駅間で運転開始している。実際に愛電と競合したのは3往復設定された準急列車であるが、愛電は30~60分間隔で特急または急行を運行したため列車本数に関しては優位であった。なお1934年12月の改正で、この準急列車は消滅している。

1935年、愛電は押切町駅(現廃止、当時の名古屋ターミナル駅)を拠点に名古屋の北西部へ路線を延ばしていた名岐鉄道と合併し、現在に至る名古屋鉄道(名鉄)が発足する。この際、「あさひ」号は所要時間60分の特急へ統合された。合併に伴って車両形式番号・称号の整理が行われ、デハ3300形はモ3300形、デハ3600形はモ3600形、サハ2040形はク2040形となった。同時に塗装もダークグリーンへ塗り替えられている。

1941年に太平洋戦争が勃発すると、戦時体制下で輸送需要が増加したことから殆どの車両がロングシート化され、さらに空襲の被災によって1両が損傷し、終戦後には乗客の道徳荒廃もあって窓ガラスが殆ど失われた無残な姿になった。1947年にはク2040形が電装化され、モ3600形に統合されている。

その後、1948年には600Vであった旧名岐鉄道線の電圧が旧愛電線と同じ1500Vに昇圧され、1944年に線路がつながっていた旧名岐鉄道名岐線と旧愛電豊橋線の新岐阜駅(現・名鉄岐阜駅)?新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)?神宮前駅?豊橋駅間が名古屋本線となり、両路線間の直通運転が開始された。モ3300形・モ3600形は、同年に登場した3800系などの強力車に本線の特急運用を譲るが、比較的大型であったことから、名鉄のほぼ各線で特急・急行・普通列車用として広範に運用された。1951年、太田川車庫の火災により焼損した本系列2両とモ914の台車機器に3800系と同一車体を載せたモ3750形(初代、後に3250形(2代目)に改番)3両が登場している(のち平行カルダン駆動の試験車となる)。1950年にはク2040形を改造したモ3600形をモ3610形と改番し、さらに1952年にはモ3600形・モ3610形共にモ3350形と再改番された。

しかし車体が老朽化・陳腐化したこともあり、1965年にはモ3300形3両とモ3350形2両が電装解除されて、制御車のク2340形となっている。捻出された電装品・台車等は冷房付の車体新造車3780系に転用された。そして1966年には3730系・3770系・3780系などに置き換えられ、全車が名鉄での運用を終えた。

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2009年03月08日

マテ茶

マテ茶は、南米を原産とするイェルバ・マテの葉や小枝を乾燥させた茶葉に、水または湯を注ぎ成分を浸出した飲料である(地域によってはイェルバ・マテを使わなくても乾燥茶葉に水や湯を注いだ飲料を一般にマテと呼ぶこともある)。

ビタミンやミネラルの含有量が極めて高く、飲むサラダとも言われている。このため、コーヒーや茶と同様の嗜好品ではあるが、単なる嗜好品の枠を超えて、野菜の栽培が困難な南米の一部の地域では重要な栄養摂取源の一つとなっている。

日本茶に緑茶とほうじ茶があるように、マテ茶の茶葉にもグリーン(緑茶)とローストしたものがある。味わいはグリーンの場合、多少の青臭みと強い苦味を持つ。ローストは焙煎により青臭みが消え、香ばしい風味が付加される。ローストした茶葉は水出し用に利用されることが多い。

伝統的な飲み方は茶器に容量の1/2ないし3/4程度の茶葉を直接入れ、水または摂氏70?80度程度のお湯を注ぐ。ここに先端に茶漉しがついた専用のストローを差し込み抽出液を飲む。容器はヒョウタン製のものはマテ、クイアまたはポロンゴなどといい、木製や角製のものはグァンパ(グァンポ)と呼ばれる。またストローはボンビーリャと呼ばれる金属製で先端が膨らみ、茶葉を漉しとるための無数の小穴が開いている。
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近年では、ティーポットで淹れて抽出液のみをカップに注いで飲む場合も多い。ティーバッグも普及している。しかし、マテ茶の淹れ方としては伝統的な方法が最も理にかなっている。ボンビーリャで飲む場合、細かい茶葉を漉しきれずに抽出液と一緒に口に入ってくる。このため茶葉の一部を食べることになり、マテ茶の栄養成分を最も効率よく取り込むことが可能となっている。湯は摂氏90度より熱いと金属製のストローでは唇が熱くてとても飲むことは出来ない。

気温が高い地域では水出しでマテ茶を飲むことが多く、パラグアイではマテ茶に薬草やハーブを混ぜて水出ししたテレレと呼ばれる飲み方が一般的である(単に「マテ茶」というと暖かいものを指し、テレレと区別している人もいる)。

茶葉に湯を注ぎそのまま飲むのが伝統的な方法であるが、現地でも砂糖を入れ甘みを加える飲み方が一般的になっている。また、スパイスや薬草・ハーブ等を混ぜて風味を変えたり、牛乳を加えたりした飲み方も広く行われている。

パラグアイ・アルゼンチン・ウルグアイ・ブラジル南部では、一組の茶器を使い複数人がマテ茶を回し飲みする習慣がある。ホスト役が茶器とボンビーリャを使いマテ茶をたて、一煎めは自分で飲む。二煎目からは順番に参加者に回していき、各人が満足するまで何杯でも回し続ける。客はホストから茶器を受け取り自分ですべて飲んでホストに返す。客から別の客に直接茶器を渡すことはせず、受け取った茶は自分ですべて飲みきりホストに返すのが作法である。茶器をホストに返すときにGracias(ありがとう)と言うと「もう満足しました」という意味になるので次からは自分に茶は回ってこない。客から茶器を戻されたホストは湯を注ぎ、場合によってはボンビーリャの差している位置を調整したり茶葉を追加したりして味を調えた上で次の客に渡す。ボンビーリャの位置を動かすと茶漉し部分が目詰まりしたり、味の濃さが変化したりするので、客は勝手にボンビーリャを動かしてはならない。

茶器
アルゼンチン・ウルグアイ・ブラジル南部では伝統的な茶器は、ひょうたんで出来ている。マテとは、現地の言葉でひょうたんを意味し、マテ茶の名前はこのカップに由来する。ひょうたん以外では牛の角や、パロサントという木で作られたものが一般的である。茶器の表面や補強のために付けられる口金、すわりを良くする為の台座には彫刻・彫金などの意匠が施される場合が多く工芸品的な美しさを持っている。茶器は陶器やガラス製のものも使われるが、多孔質の天然材料製でしばらく使った茶器でないと本来の味は出ないとされる。

ボンビーリャの材料は古くは葦などの植物の茎を利用したが、現在は金属(銀・洋銀・ステンレスなど)のものがほとんどである。

アルゼンチン・ウルグアイで使われる茶器はひょうたんの実の先端の膨らんだ部分を使い、補強された口は狭くなっているため、ボンビーリャの先の茶漉し部分は細長い。ブラジル南部で使われるそれはひょうたんの実の膨らんだ部分で切ってあり、その部分を口にするため、専用の架台なしでは立てることが出来ない。またパラグアイで使われる茶器は牛角製にしろ木製にしろ口が広い。そのためパラグアイやブラジルで購入したボンビーリャはアルゼンチン製の茶器にはほとんど使えない。

ブラジル、パラグアイ、アルゼンチンにまたがるイグアスの滝周辺を原産とするモチノキ科の常緑喬木で、学名は Ilex paraguariensis(イレクス・パラグアリエンシス)という。

少量のカフェインとアルカロイドの一種とされるマテインを含んでいる。

摘み取った葉と小枝は、直ぐに火入れを行って葉に含まれている酸化酵素を不活性化させる。その後、熱風で乾燥させ、適度な大きさに破砕して1年間ほど熟成させた後に製品として出荷される。

2009年02月20日

宇宙一の無責任男

宇宙一の無責任男」を初めとする最初のシリーズは1989年1月より富士見ファンタジア文庫より刊行された。シリーズの担当挿絵画家は当初は都築和彦が担当していたが、後年のアニメ化の影響を受けて外伝5巻以降のシリーズ挿絵画家は平田智浩に変更されている。
サイコロ セリクー クイズ ビアンコ ナビ淡竹 チャーイ バッスル グリーン ナルコ スランプ カナメモチ しおで 満月アナタ ジバン フィーバ ジーメン コシア 虹の橋 透明人間 アスキー プラスタ パイプオ ゲスケル 鯉のぼり ガラシ シーリング スイート ハネムーン 北の旅人 ワイファイ スキッド ビンゲン ション マサキ トンキロ レシー サヘル スリット レッシブ ナイス ブローチ フレー リスト ナビメリノ ジャズ フェンス りっさ サード だむら ターゲット

続編としてタイラーの子供や孫、玄孫(孫の孫)などが主人公の無責任キッズ、無責任カルテット、無責任三国志がある。

また2001年11月からはファミ通文庫レーベルよりアニメ設定を踏襲させた本編のリライト作品真・無責任艦長タイラー、無責任提督タイラーや、それら作品への布石となる前章的作品無責任三銃士(2000年6月刊行)無責任黙示録(2001年2月刊行)などが発刊されている。こちらの挿絵イラスト担当画家は吉崎観音および藤本秀明(本文およびカバー、口絵挿絵・キャラクターデザイン)江田恵一(メカデザイン)である。これについては真・無責任艦長タイラーを参照の事。

また、シリーズ初作の一部分が無責任艦長タイラーのタイトルでアニメ化されている。

作者は植木等の東宝映画『無責任男シリーズ』のファンで、この主人公平均(たいら ひとし)がもしスタートレックシリーズ的宇宙船の艦長になったら、といった構想で書かれていた(これについてはあとがきでも冗談めかして語られている)。

原作とアニメではキャラの設定などが大幅に変わっていて、主人公のジャスティ・ウエキ・タイラーが小説では20代後半のノッペリした不細工顔のロリコンのおっさんであり、艦長から提督、元帥、更には大統領にまで出世するのに対して、アニメでは20歳でそれなりの顔で駆逐艦艦長(少佐)のまま活躍し続けるという設定になっていたり、アニメではキャラ全体の年齢が若くなっている。

原作者の吉岡は当初はアニメ化の際の設定変更に対して「原作の世界観を壊している」と不快感を示した事があったが(小説のあとがきでもそれを匂わせるような面が見受けられる)、後に原作との差を解消するためアニメ設定にあわせて本編をリライトした真・無責任艦長タイラー、無責任提督タイラーシリーズを執筆した。

設定
21世紀以後、地球以外の太陽系惑星や巨大衛星に進出した地球人類移民は西暦2093年(宇宙暦101年)に独立を宣言して統合地球政府に宣戦、最初に地球外惑星の独立を唱えたマリウス・ボルツの誕生日である西暦1993年1月25日を元年とする宇宙暦を導入した。西暦2098年(宇宙暦106年)に地球外惑星側の勝利に終わって体制も一新され、以後宇宙暦が統一暦となる。宇宙暦188年(以後宇宙暦省略)にワープ航法が開発され、翌年に太陽系外への地球進出が開始される。その際に宇宙空間に微妙な空気と重力の存在が確認され、無重力・真空を前提としたこれまでの宇宙観は見直しを迫られた。ところが、208年に「ぶちこわしの一週間」と呼ばれる核戦争が勃発(この際にいくつかの大陸が消滅し、朝鮮半島やインドシナ半島などは「島」となった)、以後地球は5228年に浄化が完了するまでの5020年間、人類は地球を離れる事になる。その後、6556年にラアルゴン帝国との戦争が勃発、そして7000年に物語が始まる事となる。

惑星連合
地球人類を中心にした惑星国家の連合体。主人公のジャスティ・ウエキ・タイラー達は惑星連合宇宙軍所属であり、初期から中期までは宇宙軍を舞台に展開する。議会制民主主義であり、敢えて元首を置かない完全合議制を取っている。しかしそのために中期までは宇宙軍の、後期はタイラー一族の勢力が強く、政治家たちの動向が書かれることはほとんど無い。また、宇宙軍は伝統的に日本人の派閥が強いとされる。また、地球中心体制に不満を持ち、独立を企てる惑星もある。

「颱宙ジェーン」対策のためタイラーがラアルゴンに協力した時は一時的に降伏し、ラアルゴン主導の統一国家「汎銀河共和国」が発足。タイラーを大統領とする大統領制になった。颱宙問題が解決すると、ラアルゴン、惑星連合はそれぞれ「汎銀河共和国」内の緩やかな連邦国家となった。しかしタイラーの「銀河三分の計」により汎銀河連合共和国、ベルファルド・コーポレーション、バグジー・スレイ帝国に三分裂した。前二者は共和制とは言え事実上タイラー一族の世襲国家であり、後者はもちろんバグジーの世襲である。

ラアルゴン帝国
惑星ベヒモスを中心にした絶対君主制国家。軍政を敷き、住民は勇猛果敢で冷静沈着といわれる(ただ、後者の設定については序盤だけ)。紅毛碧眼で、女性の容姿は地球人とほとんど変わらないが、男性は毛深い。しかし交配は可能。強大な軍事力を持ち、惑星連合宇宙軍との戦争を終始優勢に進めるが、タイラーには敵わなかった。のちに立憲君主制に移行し、皇帝は残しつつ「ラアルゴン共和国」に国号を改めた。

各巻題名

宇宙一の無責任男
無責任艦長タイラー
明治一代無責任男
ワングの逆襲
無責任元帥タイラー
アザリン16歳
タイラー大逆転
無責任大統領タイラー
風速四十光年
永遠なれ無責任男

宇宙一の無責任男シリーズ 外伝
銀河無責任時代
大宇宙のサムライ
緋(あか)き獅子
厳冬惑星ホロシリの叛乱
カトリくんタンマ
我が名はヤマモト

無責任キッズ
暗黒太陽小町
WHY?の嵐
燃えてキサラ
時先案内人
銀河嫁取物語

無責任カルテット
君の名はマチコ
天使・失格
邪教殲滅
決戦!薔薇色星雲
銀河賛唱

無責任三国志
諜略トライアングル
冷たい三角関数
炎のトリコロール
奇跡のトリニティー
三匹快進撃
三羽烏登場!
三つの王冠
試練の三番勝負!
サード・ビッグバン
輝け!トライスター

無責任黙示録
ファイナス電光石火
to hurt -トゥ ハート-
ダブルプリンス
勝ってはいけない
恩讐の彼方に

無責任三銃士

真・無責任艦長タイラー
真・無責任艦長タイラー 1入隊編
真・無責任艦長タイラー 2奮闘編
真・無責任艦長タイラー 3邂逅編
真・無責任艦長タイラー 4虜囚編
真・無責任艦長タイラー 5復活編
真・無責任艦長タイラー 6凱旋編
真・無責任艦長タイラー外伝ラヴアンドウォー(上)
真・無責任艦長タイラー外伝ラヴアンドウォー(下)

無責任提督タイラー
無責任提督タイラー 1華燭編
無責任提督タイラー 2失墜編
無責任提督タイラー 3叛逆編
無責任提督タイラー 4帰還編

2009年02月04日

千坂(ちさか、ちざか)氏は、上杉氏の重臣で四家老家の一つ

千坂(ちさか、ちざか)氏は、上杉氏の重臣で四家老家の一つ。
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千坂氏は長尾氏や石川氏などと同じ上杉氏の根本被官である。後に犬懸上杉庶流を名乗るが、これは整合性が取れない。犬懸家庶流の者が、譜代の臣・千坂家を継いだという可能性も考えられるが、はっきりとはしていない。

上杉氏に仕えた時期は鎌倉時代と推測されるが、はっきりと名前がみえるようになるのは南北朝時代である。もとは犬懸上杉家の家臣であり、上杉朝宗のもとでは武蔵守護代を務めるなど家臣筆頭の地位にあった。[1] 上杉禅秀の乱の後には越後守護上杉家の家臣として現れ、上杉謙信が上杉の名跡を継いだ後は、千坂景親(対馬守)が謙信の重臣となった。

景親は越後国蒲原郡を領し、謙信の家臣の中にあっては、謙信を本営にて警固する、いわば親衛隊的な立場にあり、そのため謙信の本営が敵襲により危機に陥らないかぎり、景親には出動の機会はなかった。それが謙信の他の重臣と比して千坂景親の名前が上杉謙信の合戦記になかなか登場しない理由でもある。謙信の没後は、上杉景勝に仕える。

千坂景親は1598年に、陸奥国大沼郡に5500石を受領。関ヶ原の合戦後には徳川氏との折衝役を務める。1603年、米沢藩の初代江戸家老となる。1606年、71歳で死去。

景親の玄孫が、元禄赤穂事件(忠臣蔵)の際に父吉良義央の援軍として出兵しようとした藩主上杉綱憲を押しとどめたといわれている上杉家江戸家老千坂高房(千坂兵部)である。(ただし実際には千坂高房はすでにこの頃死去していた。詳しくは高房の項目を参照)

明治時代の貴族院議員の千坂高雅は、高房の子孫になる。

歴代当主
千坂高春
千坂光房
千坂信高
千坂定高
千坂実高
千坂能高
千坂景長
千坂景親(上杉輝虎近臣)
千坂長朝 
千坂高信(庶家からの養子説有り)
千坂高清
千坂高治
千坂高房(千坂兵部)

千坂 景親(ちざか(ちさか) かげちか、天文5年(1536年) - 慶長11年(1606年))は、戦国時代・安土桃山時代・江戸時代初期の越後国の人物。千坂景長の子で、上杉氏の重臣。対馬守。子に千坂長朝、千坂高信らがいる。

千坂氏は上杉氏の四家老の一つで、上杉謙信が上杉の名跡を継いだ時、千坂景親が上杉謙信の重臣となった。

景親は蒲原郡を領し、謙信の家臣の中にあっては、謙信を本営にて警固する、いわば親衛隊的な立場にあり、そのため謙信の本営が敵襲により危機に陥らないかぎり、景親には出動の機会はなく、それが謙信の他の重臣と比して千坂景親の名前が上杉謙信の合戦記になかなか登場しない理由でもある。謙信の没後は、上杉景勝に仕える。

1598年に、会津大沼郡5500石を受領。関ヶ原の合戦後には徳川家との折衝役を務める。1603年、米沢藩の初代江戸家老となる。1606年、71歳で死去。

江戸時代中期の元禄赤穂事件(忠臣蔵)の際に父吉良義央の援軍として出兵しようとした藩主上杉綱憲を押しとどめたという上杉家江戸家老千坂高房(千坂兵部)は、景親の玄孫に当たる。(ただし実際には千坂高房はすでにこの頃死去していた

千坂 高房(ちさか たかふさ。寛永15年(1638年) - 元禄13年5月9日(1700年6月25日))は、江戸時代前期の人物。米沢藩上杉家の江戸家老。千坂高治の子で、千坂景親の玄孫にあたる。

通称の千坂 兵部(ちさか ひょうぶ)の名で知られる。忠臣蔵などのドラマでは、吉良上野介邸討ち入りの際に実父吉良上野介を助けるために出兵しようとする主君上杉綱憲を押しとどめる役などで出てくることが多い(ただし実際にはこの時すでに千坂は死んでいる)。

千坂氏は長尾氏、石川氏、斎藤氏と並ぶ上杉氏の四家老家(千坂、長尾、石川、斎藤)の一つ。上杉謙信、景勝と二代に仕えた千坂景親は、上杉家初代江戸家老であり、その子孫の千坂高治も江戸家老となっている。

その江戸家老千坂高治の子として生まれたのがこの高房である。寛文8年(1668年)11月5日、千坂家の家督を相続したが、寛文4年(1664年)、藩主上杉綱勝急死によって米沢藩領を30万石から15万石に減らされたため、家臣たちも半知となって千坂家の所領はこのとき1565石となっていた(もともとは3130石)。

延宝2年(1676年)6月2日、世襲してきた江戸家老に就任。元禄12年(1699年)4月23日、隠居して米沢に帰国した。隠居料として15人扶持を与えられる。元禄13年(1700年)5月9日に死去した。享年62。

実際の千坂兵部が元禄赤穂事件の際にはすでに死んでいるにもかかわらず、ドラマや映画などで主君上杉綱憲の出兵を押しとどめるシーンが多いのは、大佛次郎著『赤穂浪士』の影響である。しかし最近では、千坂が当時すでに死亡していたことが広く知られるようになったため、かわって当時の上杉家江戸家老色部又四郎がこの役を代行することが多くなった。

色部安長(いろべ やすなが、寛文4年(1664年) - 享保15年7月30日(1741年8月30日))は米沢藩上杉家江戸家老。通称は又四郎(またしろう)。『忠臣蔵』の物語中で吉良上野介邸討ち入りの際に実父吉良上野介を助けるために出兵しようとする主君上杉綱憲を押しとどめる役などで出てくることが多い。

上杉家重臣長尾権四郎景光(侍頭)の次男として米沢城下に生まれたが、寛文六年(1666年)には同じく上杉家重臣の色部隼人清長の急死のためにその養子に入り、色部家の家督を継いだ。この色部家は桓武平氏の一つ秩父平氏の流れを組む本庄長門守泰長が下越後色部庄を鎌倉公方より賜り、色部氏を称したのにはじまる。戦国時代の勝長の代に上杉謙信に仕え、豊臣時代の光長は上杉景勝の会津120万石のうち長井郡金山城1万石を持った。しかし江戸時代になると関ヶ原の戦いで西軍に属した責任を責められ、上杉家は30万石に減らされたため、家臣たちの家禄もすべて三分の一に減らされ、色部家は3330石となった。さらに寛文四年(1664年)に米沢藩は藩主上杉綱勝急死によって領地を30万0000石から15万0000石に減らされたため、家臣たちの家禄は半分にされ、色部家の領地はこのとき1666石となる。これが安長が受け継いだ家禄であった。

延宝8年(1680年)4月に藩主上杉綱憲が参勤交代で江戸へ行く際にお供してはじめて江戸へ入る。ときに又四郎17歳。以降、綱憲にお供して江戸と米沢を毎年のように行き来したが、元禄12年(1699年)1月6日、上杉家江戸家老に就任し、江戸在府となった。この時に妻子も米沢から江戸へ呼び寄せて、桜田の上杉家上屋敷に住ませている。江戸家老に就任した安長は窮迫する米沢藩財政の建て直しに苦心したが、特にその原因は藩主綱憲の実父吉良義央であった。浪費癖がある吉良義央は、吉良家の普請や買掛金(商人への未払い金)をすべて上杉家に支払わせた上、毎年6000石もの援助を要求したためである。この負担の大きさは、江戸勘定方須田右近が米沢の重臣に宛てた書状の中で「当方もやがて吉良家同然にならん」と嘆いているほどであった。

元禄15年(1702年)12月14日に吉良邸討ち入りがあるが、元禄赤穂事件を扱ったドラマや映画・小説などでは、この際に、実父吉良上野介を救うため出兵しようとする上杉綱憲を色部が諫めるというシーンが多い。これは大佛次郎の小説『赤穂浪士』で千坂高房が綱憲をとめるという場面があるのが原因なのだが、千坂がこの当時すでに病没しており、江戸家老ではなかったことが判明したため、最近ではかわりにこの頃江戸家老だった色部に代えられたというわけである。しかし色部のほうも実はこの日、実父の喪中で上杉家に出仕しておらず、そのようなことはできなかった。事件を受けて翌15日に急遽出仕している。上杉綱憲の出兵を止めたのは実は家臣ではなく、親族の高家畠山下総守義寧である。しかしこれも討ち入りの最中ではなく、討ち入り後、泉岳寺にいる赤穂浪士たちを上杉家が襲撃しないように幕府老中の下知を受けて、上杉家に派遣されただけである。

色部は、その後も長く江戸家老職にあったが、享保元年(1716年)8月6日に隠居が認められて米沢に帰国した。隠居料として10人扶持を与えられて寿残斎と号す。寛保元年(1741年)に死去。享年78。米沢の千眼寺に葬られた。法名は不著院殿禅堂開基独安長慎居士

2009年01月21日

弓馬故実の流派

小笠原流・武田流は「もっぱら法式を第一とする」(「弓術要覧」『古事類苑 武技部』』)とされ、弓馬に関する故実(弓馬故実)の流派である。騎射を行うのはほぼこの系統の流派であり、流鏑馬・笠懸などの騎射のほか、歩射の諸儀式などを伝える。武家社会においては伝統的に弓馬術が重んじられ、鎌倉?室町時代には弓馬の諸式が盛んに行われた。室町時代には故実の整備が進み、これらの流派に伝えられた。

小笠原流…鎌倉時代の小笠原長清を祖とし、室町時代の小笠原貞宗・小笠原常興によって大成されたとする流派[19]。室町幕府において弓馬故実の中心的地位を得、江戸幕府でも重んじられた。古くから「礼の小笠原」と讃えられてきた。歩射も盛んであり、現代の弓道において主要な流派の一つである。
武田流(細川流)… 安芸武田氏・若狭武田氏の故実を伝える流派である。安土桃山時代に若狭武田氏の縁戚であった細川藤孝(幽斎)に伝授され、江戸時代は細川流弓馬軍礼故実と称して熊本藩で保護された。現在では騎射中心で、歩射の式は行っていない。兵学の武田流(甲州流)とは異なる。

弓術の流派
日置流、大和流など。日置流祖の日置弾正正次は射術の祖とされ、日置流は後の弓術の中核と

日置流(大和日置)(へき)…室町時代中期ごろの日置弾正正次に始まる。当時の合戦では弓射の主体は歩兵であったので、歩射が中心の流派である。日置流は後に吉田氏に受け継がれたので吉田流とも呼ばれる(竹林派を除く)。
安土桃山時代から江戸初期にかけて多くの分派に分かれた。礼の小笠原に対し、「射の日置」と称されてきた。三十三間堂の通し矢に参加した射手は日置流系であった。

以下、各派とその始祖を示し、系統関係を字下げで表す。系統は代表的な説によるが、実際の系統は複雑、不明確な点もあるため、各派の関係を完全には示していない。

出雲派(いずも)…吉田助左衛門重高(出雲守、露滴)。
山科派(やましな)…片岡平右衛門家次、または孫の助右衛門家清。
左近右衛門派(さこんえもん)…吉田左近右衛門業茂(木反)。孫の小左近茂成からは左近派とも。
大蔵派(おおくら)…吉田大蔵茂氏。
大心派(だいしん)…田中秀次(大心)。
印西派(いんさい)…吉田源八郎重氏(印西)。一部の系統は日置当流とも。
寿徳派(じゅとく)…木村寿徳。
雪荷派(せっか)…吉田六左衛門重勝(雪荷)。
道雪派(どうせつ)…伴喜左衛門一安(道雪)。
日置流(伊賀日置)(へき)…日置弥左衛門範次の系統。竹林派はこの伊賀日置流の系統を主張する。上記の大和日置流との関係は不詳である。
竹林派(ちくりん)…石堂竹林坊如成。吉田流の吉田氏との関係も指摘されるが、詳細は不明。
石堂竹林派…石堂家の系統。
尾州竹林派…尾張藩に伝わった系統。尾州竹林流とも。
紀州竹林派…紀州藩に伝わった系統。
大和流(やまと)…森川香山により江戸時代初期に創始された。香山は父より日置流寿徳派を学び、その後諸国を遊歴して日置流道雪派、大蔵派、印西派、竹林派、武田流、小笠原流、逸見流の秘奥を究めたという。神道思想を中心とした儒仏の思想をも織り混ぜて大和流として大成させた。
その他の流派

一貫流(いっかん)…大野又兵衛一貫により寛政年間に創始された。
応心流(おうしん)…高木尚三郎正朝(応心斎)。応心斎は紀州出身。挙母藩などで指導した。弟子に挙母藩士で後の新撰組隊士安藤早太郎など。安藤は天保年間に東大寺大仏殿の西廊下で通し矢を行った。
吉田当流(新発田藩、熊本藩)、豊秀流(会津藩)、太子流(姫路藩)など。
シェード ロコシ ネオクラ アマウ シブル トラジャ リーデ トーンダ フラット ジャス とうおん スウェット フラッシュ シェル オイデ チッタ ブーティ アサガオ なるこ オクナ ミックス るりこん スミド ベリドット のえいう セジュ カズラ ソフト アンチーク リジン リンネ ビリヤ モノリス ビオラ ダメージ ライアド ピアサ ドーナ てんめん ヌンチャ イザヤ タービン リーチ しょうたく プレー グザグ グルス 三番目 花かんざし リッジ

近代に成立した流派
明治時代以降に成立した諸流派。弓術ではなく弓道を名乗る流派も含む。

本多流…本多利実の弟子たちによって大正時代に創始された。日置流系であるが正面打起しである。
無影心月流…梅路見鸞が創始した流派。梅路は本多利実の高弟。
大日本射覚院…大平善蔵が大正12年に創立。禅の思想を取り入れた流派。大平は本多利実の高弟。
大射道教…阿波研造が昭和初期に創始した流派。宗教的な面が強い。オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』で有名。阿波は本多利実の高弟。
正法流… 吉田能安によって創始された。吉田は阿波研造の高弟。

弓術家人物一覧
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鎌倉時代・室町時代
那須与一宗高
小笠原長清
武田太郎信義
小笠原貞宗
小笠原常興

戦国時代

戦国時代の弓術家
一宮随波斎 - 随波斎流創始者 足利義輝・今川氏真に仕える。
日置弾正正次 - 日置流(へきりゅう)
吉田印西(吉田源八郎重氏・一水軒印西・葛巻源八郎) - 日置流印西派

弓術に特に秀でていた人物
足利義輝
今川義元
太田資正
花房正幸
六角義治
柴田勝家
武田信玄
内藤正成
六角承禎
太田牛一
七条兼仲

江戸時代
石堂竹林坊如成
吉田六左衛門雪荷
伴道雪
森川香山
吉見順正
和佐大八郎範遠

明治時代以降
本多利実
阿波研造
オイゲン・ヘリゲル
吉田能安
浦上栄
梅路見鸞